姫路 白國神社

婦人守護の神・白國神社―伝承が語る安産祈願の由来

白國神社の歴史と由緒

姫路市北部に鎮座する由緒ある神社

姫路 白國神社姫路市の北部、広嶺山の山麓に鎮座する白國神社は、長い歴史を持つ由緒ある神社です。その名は『延喜式』神名帳に記され、また『峰相記』や『播磨鑑』にも「白國大明神」として登場します。明治時代の中期までは、白国氏が代々神職を務め、75代にわたって受け継がれてきたと伝えられています。

八幡社の由来と建築美

旧本殿から八幡社へ

姫路 白國神社境内にある八幡社は、現在の本殿の北側に位置し、南を向いて建てられています。かつては白國大明神を祀る本殿としての役割を担っていましたが、昭和10年に神社が県社に昇格した際、新しい本殿が造営され、現在の場所に移されました。建築様式から推測すると、八幡社の建造は17世紀末から18世紀初頭にかけてのものと考えられます。

建築様式と装飾の美しさ

この八幡社は、一間社隅木入り春日造の建物で、屋根は現在銅板葺きですが、かつては柿葺きでした。正面と側面の三方には縁が巡らされ、高欄や脇障子が設けられています。社殿内部は前後に分かれ、正面が外陣、奥が内陣となっており、内陣には宮殿が安置されています。外陣の正面扉は桟唐戸の両開きになっています。さらに、向拝部分には庇が設けられ、木階や浜床、浜縁が備えられています。

精巧な彫刻と意匠

姫路 白國神社建物の細部には精巧な装飾が施されており、蟇股には鳳凰(正面)、竹と虎(右側面)、波に兎(背面)、梅に鶯(左側面)といった意匠が見られます。向拝には龍が彫られ、裏側には渦が描かれています。組物は出組で、軒支輪には蛇腹支輪が用いられています。特に背面の妻飾り部分には、姫路城主・本多家の家紋である立葵と神社の菊紋を組み合わせた蟇股が配置されており、本多家との関係をうかがわせます。

このように、八幡社は細部の意匠が際立つ美しい建築であり、白國神社の旧本殿として重要な歴史的価値を持っています。後世に修繕が施された部分もありますが、全体的に良好な保存状態を保っています。

白國神社の創建伝説

神話に伝わる創建の由来

白國神社の創建には、神話的な伝承が残されています。今から約1800年前、景行天皇の御子・稲背入彦命が大和の地から播磨へと下向し、白國の地に宮殿を構えてこの地方を治めたと伝えられています。

神吾田津日売命のご加護

姫路 白國神社ある時、稲背入彦命の孫にあたる阿曽武命の妻・高富媛が出産に際して大変苦しみました。阿曽武命は倉谷山の峰に白幣を掲げ、神吾田津日売命を祀り、安産を祈願しました。その時、女神が現れ、「私は神吾田津日売である。あなたの祈りは天に届いている。この地にとどまり、婦人を守護し安産を助けよう」と告げると、白幣とともに姿を消したといいます。

阿曽武命が帰宅すると、高富媛は無事に男子を出産していました。神の御加護に感謝し、彼は倉谷山の麓に社殿を築き、神吾田津日売命を祀りました。これが白國神社の始まりとされています。

白國神社の格式と信仰

朝廷や武家からの篤い崇敬

姫路 白國神社白國神社は播磨の国四之宮の一つとして、朝廷や武門の領主たちから深い崇敬を受けてきました。元慶元年(877年)には正五位下の位を賜り、二條天皇からは腰刀を下賜された記録が残っています。明治7年(1874年)には郷社に列し、昭和10年(1935年)には県社に昇格しました。

現在も続く婦人の守護神としての信仰

姫路 白國神社今日においても、白國神社は「婦人の守護神」として広く信仰され、播磨一円から多くの参拝者が訪れています。その神徳の高さは、今も変わることなく人々に慕われ続けています。

白國神社:兵庫県姫路市白国5丁目15-1

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